音楽

2020年6月20日 (土)

シューマンコンクール1989⑲

[6月20日]帰宅

 

とうとうツヴィッカウを発つ日になった。
私が一番最後の旅立ち人となったのだった。

ハイデさんとハイン夫人が駅まで見送りに来てくださった。
手厚いもてなしを受け、私は感激しっぱなしであった。
 
こうしてシューマンコンクールは終わった。
コンクールは絶対的なものではなく、一時の出来事である。
運良く賞に入れても、そこで努力をやめてはいけない。
芸術の道は果てしなく続いている。
 
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夕刻、ザルツブルクに到着すると、町は私が出発した時と同じ表情で何事もなかったかのように私を待っていた。
また新たに勉強の日々が始まる。
 
私は二週間後に、マイセンの陶器を携えて、日本に一時帰国した。
 
おわり

2020年6月19日 (金)

シューマンコンクール1989⑱

[6月19日]マイセンへ行く

 
アルムートが朝早い列車で東ベルリンへ帰るのを見送りに行った。
東ドイツの人々は60才以上にならないと国外へ出られない。
出られることがあっても、それはかなり特別なことのようである。
私たちもまたいつ会えるかどうかわからないが、また是非会いたいと願いながらアルムートと別れた。
彼女は涙ぐんでいた。
 
さて、これからハイン夫人とマイセンまで行くのである。
マイセンはドレスデンから西北へ約20kmのところにあり、ツヴィッカウからは車で約2時間かかる。
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(マイセンの店前)
 
頭の中できんきらきんの豪華な陶器がずらっと並んでいるのを想像していた私は、そのマイセンの店に着いた時、その小ささにすっかり驚いてしまった。
一体どこに陶器があるのかしらと店を見回さなければならないほど品物が少なかった。
  
ハイン夫人が前もって頼んでくれておいたらしく
「この子はシューマンコンクールで2位をとって、賞金でマイセンを買いに来たのですよ」と、まるで母親のように得意げに喋っている。
店長らしき人が「どうぞこちらへ」と事務室に案内してくれた。
  
そこにティーセット一式が置いてあり、「いかがですか?気に入りますか?」ときかれたのだが、たくさんの中から自分の気に入るものを選べるものだとばかり思っていたので私の口からは「他のも見せてください」という言葉が思わず出てしまった。
ところがその”他"はなかったのである。
 
 
Img_7249(店内の展示品)
  
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(店内の展示品)
  
店内に飾られている大きな花瓶などは売り物ではなく展示品だということ、そのティーセット一式はわざわざ私のために用意されたものだということがわかった。
東ドイツの人たちにも、マイセンは手に入りにくいものらしい。
高価ということもあるが、ほとんど輸出用で、また輸出される際には2、3倍に値段が上がってしまうらしい。
 
結局私はその店で「私のために用意された全て」を買い込んだ。
ハイン夫人は、あなたは本当にいい買い物をしたわと、満足げであった。
 
Img_7057(ハイン夫人と)
 
こうして私は貴重なマイセンの陶器を手に入れることができたのである。
どれもこれも縁に金がぶ厚くたっぷりと塗られている。
3枚のうちの2枚の皿は東洋的な図柄で、柿右衛門の影響が見られる。
思いも寄らないものが私の手に転がり込んできたという感じだった。
1枚の皿をラング先生にプレゼントすることにして、その他は家族へのお土産となった。
  
つづく

2020年6月18日 (木)

シューマンコンクール1989⑰

[6月18日]賞金は物に変えて

 
全ての演奏会が終わり、次々と仲間が国に帰っていく。
私も本当は今日、ザルツブルクに戻るつもりだった。
 
ところが問題は賞金5000ドイツマルク。
両替もできなければ国外に持ち出すこともできないというのである。
使い切るしかない。
 
あいにく今日は日曜日で、店はどこも閉まっている。
ル・サージュは昨日、楽譜屋で店が開けるくらいたくさんの楽譜を買ってフランスへ送ったという。
メルニコフは大量の靴を買っていた。
 
運営委員のハイン夫人に相談すると「何か買いたいものはありませんか?マイセンの陶器はどうですか?」と提案された。
マイセンの陶器・・・私は陶器がとても好きだし、早速それが欲しいと伝えた。
ところがマイセンの陶器はそこら辺ですぐに手に入るわけではないらしい。
ハイン夫人が四方八方に手を尽くしてくれ、明日の月曜日、わざわざ私一人のためにマイセンの工場へ車を一台走らせてくれることになった。
全くこのコンクール事務局はどこまで親切なのだろう!
 
それに加えてアルムートが、私が一人でホテルに残るのは可哀想だと、食事も一人でしなくてはいけないのは寂しいだろうと、月曜の朝まで私と一緒にいてくれるというのである。
 
彼女は東ベルリンで勉強していて、翌日東ベルリンに戻ったが、それまで私たちは湖でボートに乗ったりしていろいろお喋りを楽しんだのだった。

Img_7062(アルムート、私、ハイデさん)
 
アルムートのお父さんは月1200マルク、お母さんは600マルクの収入があるという。
それで贅沢をしない程度に暮らしていけるというのだから、私が得た賞金は東ドイツの人たちの3ヶ月分くらいの生活費にあたるようだ。
 
コンクールが終わり、外部の人たちがホテルに出入りするようになってからはコンクール中の良い雰囲気が消滅してしまい味気なかったが、アルムートが私と共にいてくれることは心強かった。
 
つづく

2020年6月16日 (火)

シューマンコンクール1989⑯

[6月16日]授賞式と記念演奏会

 

コンクールは終わったが、これから2回、受賞者記念演奏会が行われる。

今日は朝、そのリハーサルがある。
今晩の演奏会はTV録画されるらしい。
 
アルムートとオルトルンがいつも私に付き添って私の世話をしてくれる。
全く良い友達に巡り会えたものだ。
4時からシューマンハウスで授賞式が行われ、賞状とメダルと賞金を受け取った。
 
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(ツェヒリン審査委員長と私)
 
Img_7090 (ピアノ部門と声楽部門の入賞者たち)
 
  
夜の記念演奏会は満員だった。
声楽とピアノの入賞者が3位から順に10分ずつ演奏する。
1位のル・サージュだけは最後にコンチェルトを弾けるのだ。
  
翌日も入りきらない聴衆のために記念演奏会が繰り返された。
  
ル・サージュは疲れが出たのか、2度とも傷のある演奏ではあったが、それでも好感のもてるものだった。
彼は今まで多くの国際コンクールに参加しており、経験も豊富で謙虚で明るい人柄からもこの先きっとこの1位という賞にふさわしいピアニストとして活躍するだろう。
 
F68f216829cb4858a6c8c46c36bf0bdc_1_201_a(3位のメルニコフと食堂にて)
 
つづく

2020年6月15日 (月)

シューマンコンクール1989⑮

[6月15日]本選最終日と結果

いよいよ本選最終日である。

今日はソ連のリャードフと、フランスのル・サージュが登場する。


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(ヴィクトル・リャードフ)
 
リャードフはタチアナ・ニコライエワ先生の弟子で、私も期待して聴いていたのだが、第3楽章で思わぬハプニングが起こった。
弦が切れてしまったのである。
そこを弾くたびにジンジンと耳障りな音がする。
彼はソロが休みの間になんとかその切れた弦を引き抜こうと懸命になったが、そのために集中力が乱れ、思わぬミスが連発された。
それまで創造的な音楽を作っていた彼には悲運だった。
 
2人目はフランスのル・サージュ、24才である。
強烈というのではないが、努力の積み重ねを感じさせる誠実な演奏。
聴衆も好感を持ったのだろう、足をばたつかせて大喝采だった。
 
Img_7257(エリック・ル・サージュ)

 
3日間にわたる6人の演奏がすべて終わった。
私と仲良しになった取り巻き応援団の皆は、ル・サージュと私が1、2位を争い、メルニコフが3位だろうと話している。
 
ホテルに戻って彼らとお茶を飲んだ。
レストランには審査員の先生方も次々とやってくる。
このコンクールでは審査員は点数を提出するだけで、実に単純明快、話し合いなどは一切ないそうで、誰が誰に何点を入れたかもわからないし、審査委員長が合計点を出すまで審査員自身も結果を知らないそうである。
1、2時間したら結果が出るだろう。
 
しばらくして、向こうの方がざわめき始めた。結果が食堂で発表されるらしい。
私を応援してくれた東ドイツのアルムートとオルトルンが、腰を上げない私を無理やり食堂へと引っぱっていく。
 
審査委員長から発表があった。
「ピアノ部門の1位は、フランスのエリック・ル・サージュ」
歓声が上がり、彼の取り巻き応援団は大変なはしゃぎようだ。
しばらくして落ち着いてから「2位は、日本のサチヨ・ヨネカーワ」と、私が呼ばれた。
アルムートとオルトルンは私を抱きしめ、ほっぺにキスをしてくれる。
「3位はソ連のアレクサンダー・メルニコフ」
16才の少年の顔があどけなく笑みに崩れた。
 
ここまでが入賞者で、あとの3人はディプロムを得ることになる。
4席目はミハイヨク、5席目はリャードフ、6席目はスチコフだった。
続いて声楽部門が男性部門、女性部門と発表され、特別に最優秀伴奏者賞が1人の女性伴奏ピアニストに与えられた。
  
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ラング先生はどこ?
私は人をかき分けるようにしてラング先生のもとに歩み寄り、御礼を申し上げた。
先生はとても嬉しそうで「大成功おめでとう」と言ってくださった。
 
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ラング先生はレッスンの際、物凄く厳しかった。
1小節弾いたところで「帰れ!」と楽譜を投げられたこともある。
感性が鋭く気性の激しい先生なので、レッスンに行くのは本当に怖かった。
しかしそんなことを乗り越えての今、私は先生に心から感謝した。
 
アルムートとオルトルンが、レストランで乾杯をしようと言う。
日本への国際電話をホテルの受け付けに頼むと、繋がったら知らせてくれるというので(1、2時間かかるそうなのである)5、6人集まって飲み始めた。
 
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ラング先生もしばらくして我々に加わった。
ラング先生は審査委員長のツェヒリン教授から、私とル・サージュは1点差で、2人が3位以下を大きく離していたということを聞いたという。
 
よくコンクールで審査員に自分の先生がいると有利だといわれるが、今回ラング先生は自分の弟子だからといって私に甘い点を与えるということはしなかったのだそうだ。
というのは以前、あるコンクールで審査員が自分の弟子に特別よい点をつけ1位にしたが、その後大した活躍をしていないという例を知っており、審査員たるもの公平に審査をすべきだという信念を持っておられたからだ。しかし1点差!ちっ、と舌打ちされていらした。
 
また、私はそのとき初めて知って驚いたのだが、コンクール期間中にラング先生の奥様のお父様が亡くなられたとの連絡があったものの、先生はザルツブルグには帰らずここに留まって審査を続けられたのだそうだ。
私たちはその話を聞いてしんみりしてしまった。
アルムートはラング先生に感激して、ぜひ奨学金を得てモーツアルテウムの夏期講習に参加したいと夢を膨らませていた。(東ドイツ人が国外に出るのは大変困難なことなのである。)
 
1時間半程して日本に電話が繋がった。
ツヴィッカウから初めてかける家族への電話であった。
 
つづく

2020年6月14日 (日)

シューマンコンクール1989⑭

[6月14日]本選2日目

今日は本選の2日目だ。
ソ連のミハイヨクとメルニコフが登場する。
 
ソ連勢は前もって国内予選を勝ち抜いてきた選抜メンバーなので強い。
しかし日本人が西洋音楽をやる際に一度は感じる血、伝統の違いのようなものがソ連の参加者にも当てはまるような気がしてきた。
 
ソ連のピアニストたちは自己主張が強く、アクのある演奏をするが、それがロシア的であり、時々これでもシューマンの音楽なのだろうかという印象がぬぐえない。
彼らを聴き進んでいくにつれて何か異質なものを感じるのは私だけだろうか。
  
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 (アレクサンダー・メルニコフ)
  
そうはいっても、今日2番目に弾いた16才のメルニコフは才能の点では素晴らしいものを持ち合わせていたのは確かだ。
ソ連勢はお国の期待を背負って来ているし、もし成功すれば西側への進出も可能となるが、失敗した場合はそれからしばらく国内予選にも出ることができない。
たった一度の失敗によって才能の芽を摘まれてしまうこともあるわけだ。
それだけにみんな必死なのだ。
 
ソ連の参加者を見て私はとても厳しいものを感じたが、同時に寂しい気もした。
メルニコフは事務局が行ったインタビューの中で「どうしてこのコンクールに参加したのか」という問いに「勝ち抜くためです」と答えたという。
若い彼はこれから先、どんなふうに歩んでいくのだろうか。
 
 
それはそうと私はこの日、友人とライプツィッヒまでの日帰り小旅行を楽しんだのだった。
ツヴィッカウからライプツィッヒまでは列車で1時間半。
ツヴィッカウに来て以来、ホテルとコンセルヴァトワールと会場の往復しかしていなかったので、これは有意義な旅行となった。
 
ライプツィッヒは東ドイツ第二の都市で、町の感じも近代的で明るかった。
私たちは駆け足で
バッハが晩年オルガニストと指揮者を兼任していたという聖トーマス教会(ここには祭壇前に彼の遺骨が眠っている)
若いゲーテが好んで通った酒場アウエルバッハス・ケラー
彼が法律を学んだというカール・マルクス大学
そしてゲヴァントハウスやオペラ座を見て回った。
 
Img_7243(聖トーマス教会 バッハここに眠る)

  
Img_7245(聖トーマス教会を背景に)
  
 
Img_7246(アウエルバッハス・ケラー)
   
昼食にはなんと日本料理店で久しぶりにお米を食べ、大感激したのだった。
 
つづく

2020年6月13日 (土)

シューマンコンクール1989⑬

[6月13日]本選1日目
今日から本選だ。夜7時から2人ずつ、3日間に分けて行われる。
 
リハーサルは当日朝、1時間だけだ。
初日の今日は最初にソ連のスチコフ、そして私。
 
午前11時からオーケストラとのリハーサルが行われた。
指揮はアルブレヒト・ホフマン、オーケストラはツヴィッカウ市管弦楽団。
会場は予選と変わって、コンツェルトハウス"ノイエ・ヴェルト"である。
 
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とても美しいホールだ。
ラング先生は昔、ここでシューマンのコンチェルトを弾かれたそうだ。
先生が弾いたホールで、同じピアノで、同じシューマンのコンチェルトを私が弾くのである。
 
会場に着くと「僕は行かないから、一人でやってごらんなさい」と仰っていたラング先生が、柱の陰に隠れるようにして先にいらしていた。
やっぱり心配になられたのだろう。
 
リハーサルは果たして、問題大ありだった。
録音したカセットテープをきいてみたら、物凄く速いテンポで弾いてしまっていた。
当の私はそれでいいと思ってどんどん速く弾くものだから、オーケストラを引っぱっていて全く酷いものだった。
 
ここからが勝負である。
私は体力を消耗しないように、また本番のピアノの鍵盤の感覚を忘れないように、もう練習はやめて、ひたすらその録音テープを5回も6回も聴いた。
頭の中で修正するのだ。
 
夜8時、出番だ。
楽屋で緊張していると、ラング先生がいらした。
「緊張しているのかい?あなたは音楽をするんだよ!」
 
舞台袖で私は、指揮者のホフマンさんに言った。
「私はあなたを信じます。とにかくコンビネーションを大切にしたい。」
リハーサルで勝手気ままに弾いたことが恥じられて仕方なかったのだった。
 
明るい舞台に、オーケストラの楽団員の間を縫うように出ていった。
私はリハーサルの時より遥かに良くオーケストラを聴きながら弾くことができた。
"一緒に音楽をする"ということを常に心がけた。
 
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(シューマンのピアノコンチェルト イ短調 Op.54を演奏)
   
長いようで短い30分が終わった。
拍手が起こり、ヨーロッパでは気に入った時のお客さんの反応として足で床をバタバタ踏み鳴らすのだが、2度3度とカーテンコールに応えるたびに、それが地響きのように聞こえてきた。
私は聴衆に受け入れられたのだった。
 
楽屋から出るとハイデさんが花を持って迎えに来てくださっていた。
これで用意したプログラムの全てを、私は弾き終えたのだ。
充実感があった。
 
つづく

2020年6月12日 (金)

シューマンコンクール1989⑫

[6月12日]ファイナルに残る

 
昨日の夜出た2次予選通過者の発表を朝になってから見に行った。
 
本選出場者は6名。ソ連4名、フランス1名、そして私。私以外みんな男性である。
 
ここまで来られたことはとても嬉しかった。
今度はオーケストラと共演できるのである。
ただ、シューマンのコンチェルトは一度もオーケストラと共演したことがない。
そのことは不安だった。コンチェルトは経験がものをいうからだ。
 
今日はまた、審査なしのお休み日である。
 
本選に進めなかったコンテスタントのためにドレスデンへの日帰りバスツアーが企画されている。
私も行きたかったけれど、何よりもまず自分の体調を整えないといけないので行けずじまいだった。
 
今はもう一人部屋に移ったので落ち着けるが、今度の部屋は車がよりうるさく、その上トラックが通るたびに揺れるのだ。
しかし文句は言えない。
 
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(クララとロベルト)
  
つづく

2020年6月11日 (木)

きょうはお休み

連載しておりますシューマンコンクール1989ですが、6/11は記録がないのでお休み・・・

なのですがマイセンのカップをご紹介します。

私、陶器が大好きなんです。

でも、こちらもったいなさすぎて使えません。

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2020年6月10日 (水)

シューマンコンクール1989⑪

[6月10日]必死の2次予選

  
きょうは私の第2次予選で朝9時から30分間リハーサル。
 
あまり調子が良くないなぁと思いながら弾いていると、同じメロディーを後ろのピアノで弾くのが聞こえ、振り向くとラング先生がいらしていた。
先生もじっとしておられず来られたのだろうか?
 
「調子はどうだい?」ときかれたが、とにかく寝不足で腕の重い私である。
「よくありません」と答えると「そんなことはない。大丈夫だ、大丈夫だ」と励まされた。
私の次の参加者が病気で棄権したので、あと15分長くリハーサルができるという。
 
彼女は東ドイツの参加者で、一次予選ではしっかりしたテクニックで安定した演奏をきかせており、少々冷たい感じがするが有望な一人だと思っていたのでその棄権の知らせにはとても驚いた。
私は調子が悪いが彼女のように病気で棄権するのはさぞ無念であろう、と弾けるだけでも幸せなことだと思った。
 
午後の本番までにもう一度、コンセルヴァトワールでおさらいするつもりだった。
ところがいざピアノの前に座って弾いてみると腕が重い。
私は泣きたくなった。弾けないのだ。腕が重くて動かない!
ここで無理をして練習したら本番では全く弾けなくなってしまうかもしれない。
もう練習はせず本番にかけるしかない。
そう思って長い間ピアノの前にボーッと座っていた。
 
本当に何が起こるかわからない。
私はゆっくりゆっくりと、会場のゲヴァントハウスまで歩いて行った。
 
会場に着くと丁度私の前のスチコフが終わり、彼は広場でサインを求められているところだった。
 
果たして私は弾き終えることができるだろうか?
弾き出してみなければわからない。
弾けなければ途中で止めればいいのだ。
一次予選の時、闘志に満ちていたのとは全く違う状態だった。
 
午後2時半。私の出番である。
自然に、あるがままに・・・そう思って、弾き出した。
 
調子は良くなかったが止まりはしなかった。
私はシューマンのクライスレリアーナ、ベートーヴェンのソナタOp.101 、日本人作曲家の現代曲(間宮芳生先生のディフェレンシアス)という約55分のプログラムを弾き終えた。
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聴衆は温かく、私は何度も舞台に呼び戻された。
聴衆に対して誠実でいられた!ベストは尽くすことができた!支えてくれた人たちへの感謝・・・そんな思いでいっぱいだった。
 
楽屋から出てくると数人にサインを求められた。
こちらでは日本人が珍しいのか、日本語で書いてくれと頼まれる。
事務局のハイデさんも聴きに来ていらして、えらく私の演奏を気に入ってくれた様子だった。
 
あまりに疲れていたので、ハイデさんに連れられて車に乗り込みホテルへ戻った。
たくさんの人から賛辞をもらったけれど、音の伸びは一次予選に比べれば良くなかったので意気揚々といった感じは全くなかった。
 
今日は腕を休ませなければならない。
夜の2人は私と同じ曲を弾くので聴きに行くことにした。
この2人の演奏を聴いて、疲れているのは私だけではないと思った。
2人とも男性だったが本当に辛そうだった。
私にはその気持ちがよくわかった。
みんな自分と闘っているのだ。
 
つづく

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